軍楽隊関連


主にドイツの軍楽隊関連の記事です

0.響き渡る軍人精神(イントロダクション)
1.ドイツ軍楽隊の起源と歴史(第二次大戦まで)
2.戦後のドイツ軍楽隊
3.最近のドイツ軍楽隊と日本との交流など

0.響き渡る軍人精神(イントロダクション)

戦友よ! 君はまだあの若かったころ、軍隊生活で初めて誇り高き連隊の隊列に加わった時のことを覚えているだろうか? 号令が千名余りの兵士達の頭上に響き渡る。「気をつけ!」君たちは緊張を帯びた静寂に包まれる。「連隊、進め!」そしてその硬直が突然解き放たれる。同時に連隊の最前列で音楽が鳴り出し君の体に電撃が走る。君の脚は自然に歩調を合わせ始める。鼓笛隊の太鼓のリズムと朗々たる横笛の音が君と戦友達を包み込む。君の耳は敏感に、そして心地よく「導入行進曲」のメロディーを追う。そして一小節ずつ正確に「行進曲」のアインザッツに向けて導かれる。突然、太鼓と横笛が中断する。ほんの一瞬の静寂、
パウゼ・・しかし次の瞬間、強烈に轟くトランペット/テューバ/トロンボーン、様々な木管楽器のトリルとさえずり、そして氷のように冷たく魅惑的な大太鼓とベッケンの響きがホルンの荒々しい後打ちに満たされて指揮を受け継ぐ。このとき初めて連隊全員が輝きに満ちて行進を始める。 君と戦友達はそれを快く感じ取った。通りに面した窓が開き街中が仕事を中断する。そして皆、歩道や広場に走りよってこの重量感に満ちた正確な軍隊の行進風景に魅了されて感激を体験するのだった。
スープには塩が必ず入っているように、軍楽は兵士達の一部なのだ。それはただ兵舎の中、訓練や演習への行進、パレードや儀杖兵のためだけのものではない。もちろん悲しみに包まれた戦友の埋葬や、重苦しい小太鼓のロールと遅い歩調の葬送パレードだけのものでもなく、連隊の祝典や舞踏演習、生誕祭、記念祭等の楽しい催しのためだけのものでもない。軍楽の分野はもっと広範なものなのである。ロシアの元帥アレクサンドル・スワロフ侯爵(1729-1800)は適切にもこう述べている。「音楽のない軍隊など、だめになった鍋のようなものだ!」 軍楽ほど国民と兵士達を結ぶ素晴らしい接着剤は他にはありえないのである。

1.ドイツ軍楽隊の起源と歴史(第二次大戦まで)

ここでは、簡単に掲記の概観を記述するが、内容については元武装SS隊員で戦後いくつかの著作を残したフリッツ・ブンゲ氏からの引用に負うところが大きい。勿論、翻訳上の責任は全てHP管理人に帰する。
☆起源について: 自明のことではあるが、軍楽の最初の姿は軍隊の情報/命令を伝達するための「信号」であった。これは狩や航海でも同様であり「ほら貝」などが代表的であった。
☆ドイツでの黎明期:皇帝カール5世は1528年に「トランペットとティンパニ奏者の高貴なツンフト」を設立した。ドイツの王侯は揃って彼らを採用し重要な政治/軍事活動に活用した。ドイツ軍楽隊ではトランペットとティンパにが華々しい活躍をするのもこのような歴史に基づいている。また、1450年以降、歩兵部隊においては鼓手と笛手各1人が先頭で演奏しながら行進するようになった。当時は歩調を合わせてはいなかったが、この鼓手の演奏で各種の命令信号が発せられ「帰営譜」等もその一部であった。30年戦争当時、彼らが演奏時に着用したのがスワローネストであり、以降軍楽隊員のシンボルになった。
☆その後の発展:フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が1713年にプロイセン国王に即位すると、軍制改革とともに軍楽も大きな発展をとげた。これと前後して発達した管楽器の導入も発展に寄与した。(特にクラリネットとバステューバ)ここで忘れてはならないのがフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィープレヒト(1802-1872)である。彼は元管弦楽団の指導者であったが、その後軍楽の発展に決定的な足跡を残している。主な功績としては「バステューバ」の発明と「大帰営譜」の編集、そして多数の軍楽隊による「大演奏会」の開催がある。そして第一次大戦直前に1つの頂点を迎え軍楽隊は400を超えたのである。
☆一次大戦の敗北と軍楽隊の衰退:しかしながら大戦の敗北により軍隊が大幅に制限されたのに伴い、軍楽隊も一時的に衰退せざるをえなかった。
☆再軍備と軍楽隊の再拡張:第三帝国の成立に続き1935年ドイツの再軍備開始により軍楽隊の整備が急務となった。以前のような音楽家ギルドによる隊員の要請では間に合わないため、「軍楽学校」が相次いで設立された。ビュッケブルクには陸軍の軍楽学校が建設され、新設の空軍はテューリンゲンのゾンダースハウゼンに軍楽学校を建設した。その後フランクフルト(マイン)の市長の熱心な勧誘により3軍の軍楽学校をフランクフルトに集結させる計画もあったが実現はしなかった。また、同様に新設された武装親衛隊もブラウンシュヴァイクに軍楽学校を建設した。
☆第二次大戦の敗北:これらの華々しい展開も大戦の敗北とともに崩壊したことは真に残念なことである。特に政治的な理由から第三帝国時代の素晴らしい軍楽の成果(映像・録音・楽譜・楽器等)が散逸したことは歴史上の大失態であると言えよう。

2.戦後のドイツ軍楽隊

☆旧東ドイツ:大戦後、早くも冷戦の緊張によりソ連隷属下のドイツ民主共和国は再軍備を実施(1956年)、これに伴い国家人民軍配下に軍楽隊が再編成された。当時の状況について詳しい資料が手元にないが、隊員の多くは旧ドイツ国防軍軍楽隊で活動していたことは間違いないだろう。面白いことに、人民軍の軍楽教育組織は1974年11月になって初めてリューゲン島のプローラに設立されている。ゲルハルト・バウマン大佐と人民軍中央音楽隊に象徴される「力強さ」と「超絶技巧」が高次元で融合する演奏は今も我々の心を捉え続けており、今後も当時の演奏がCD化されていくことを望みたい。しかしながら東西ドイツの再統一によって彼らの活動は西ドイツ側に吸収されるのである。統一直前の軍楽隊の規模は(人民軍所属のみ)中央音楽隊69名、フェリクス・ジェルジンスキー警衛連隊付軍楽隊43名、ライプチヒ駐屯の陸軍本部軍楽隊43名、地方陸軍7隊は各28名、コットブスの空軍本部軍楽隊43名地方空軍2隊は各28名、ロストックの海軍本部軍楽隊も43名、地方海軍2隊も各28名であった。また、各本部軍楽隊には17名の鼓笛隊が付属していた。
☆旧西ドイツ:旧西ドイツも大戦後まもなく再軍備が必要となり1955年にドイツ連邦軍が発足した。これに伴い1956年には軍楽隊16隊(陸軍12、空軍2、海軍2)が編成された。翌年には本部軍楽隊が、翌々年には空軍2隊がさらに編成され、1960年にはヒルデンに教育音楽隊が設置された。また1972年には連邦軍ビッグバンドが当時のシュミット首相の肝いりで編成されている。1985年にはギーセンに新陸軍第5軍楽隊が設置された(旧第5は第300と改称)が1993年に他の3隊とともに解隊された。また、東西統一により旧東ドイツから再編された4つの軍楽隊が追加されている。現在ベルリンに駐屯している本部軍楽隊は、当時「陸軍東部軍楽隊」として編入された東ドイツのメンバーが中心となっている。残念なことに近々「陸軍第7」「第一軍管区」「第二軍管区」「陸軍第4」の4隊が軍備縮小にともない解隊される予定である。

3.最近のドイツ軍楽隊と日本の交流など

戦後のドイツ軍楽隊と日本の交流は、基本的に民間レベルであった。自衛隊は米国との交流が殆どだったためである。そして「ドイツ行進曲愛好会」はこの交流の中心となっていた。
・愛好会幹部G氏と連邦軍軍楽隊首脳との会見。1976年の夏にG氏は当時の軍楽監ヨハネス・シャーデ大佐とボンの連邦軍戦力局で会見した。このあと陸軍第5軍楽隊を訪問し、シュリューター中佐と懇意になったことが1980年の日独修好120年記念演奏会に同氏が客演する下地となったのである。その後1984年に空軍第1軍楽隊が「ドイツ博」での国歌演奏に来日したときもリントナー中佐はじめ関係者をエスコートしたのもG氏であった。1988年の東京ドーム完成に伴う各国軍楽隊の祭典(アルフィーは艶消しであった)に本部軍楽隊とパウル中佐が来日したことで「愛好会」と連邦軍軍楽隊の関係は1つの頂点に達した。
・その後は、本HP管理人や愛好会会員Y氏によるドイツへの訪問及び軍楽祭での録画活動を通じて連邦軍の各種の活動が詳細に伝えられている。また、最近では新規会員のK氏が訪独し高解像度の軍楽隊の演奏会ビデオの撮影が紹介され更に関係が充実しつつある。
・残念ながら旧東独の軍楽隊とは政府/民間ともにコンタクトがとれぬまま再統一を迎えてしまった。今となっては管理人と同僚のS氏が撮影した東ベルリンの衛兵交替の突撃ビデオが唯一の貴重な資料となっている。(勿論、最近旧東独放送局の映像がビデオ商品化されつつはあるが)

付録1:旧東ドイツの軍楽隊

1965年ころの人民軍軍楽隊(於東ベルリン)、まだ詰襟の制服です。

付録2:旧東ドイツのシンバル

最近入手した旧東ドイツのシンバル(ベッケン)です。私が所属する吹奏楽団のメンバーがドイツのオークションで落札してくれました。多分新品で6万円くらいでした。縁がめくれていて、表面が凸凹です。また非常に軽く行進しながらでも問題ありません。音色はSPレコードでおなじみの「グシャーン」という鈍い音です。現在のシンバルより明らかに粗雑なつくりですが味がある音色です。ドイツ行進曲では是非これを使って本場の響きを出したいですね。


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